昭和42年10月7日   夜の御理解



 昨日頃から、私すこしあの風邪気味で体が少し寒気がしたんです。少し頭痛がしたんです。健康の上に私は優れない時にはどうしても心もやっぱり優れない。
今朝も朝の御祈念を奉仕させて頂くのに、何とはなしに元気がない。そんな思いでここへ出らせて頂きましたら、丁度15分ぐらい前でしたでしょうか、ここへつきました。そしたら、中西さんがみえておる、正義さんがみえておる、久留米の古賀さんがみえておった。 昨夜、皆2時頃まで、他の方達は3時頃、少し中で帰られましたから、それでもやっぱり2時ぐらいはありました。中にはやっぱり正義さんでも古賀さんでも今朝からの朝の御祈念に参って来ておる。とりわけ、大祭まではという特別の修行が心がそういうことに出来ることでございましょうけれども。
 そうした、朝のそうした一生懸命のそうした雰囲気に触れましたら、途端に私の心の中になにかこう、枯れた心の中に生き生きしたものが注がれたような気がした。
 今日の午前中はどうやらこうやら御用ができたんですけれども、午後からもうすぐ休ませて貰い、どうも丹前も着てますけれども?寒気がする。勿論昨日からお風呂も入っていない状態。ですから、そういう時にはとりわけ自分の心を例えて言うならば神様へ心を向けるとかですね。例えば、もう起きてくる、ですからそのまま抜けて出てきてもいいのですけれども、やはり、あの、布団もきちっとこう、とりわけ実意丁寧の限りを尽くしてみるんですね、そこから自分の心の中にちょっと蘇るものを頂くことは私よく体験しておりますから、もうその心が疲れておる時にはやはり心の疲れ、心の疲れておる時、体が疲れておる時には心のほうが疲れておる時ですから、そういうものを求めて様々にテレビ一つから見る中からでも、その中から(    ?   )ないだろうかとか。まあ、いわゆる、とりわけ神様に心を向けておるんですけれども、こちらが萎れておる時には、なかなかそれをぱっと吸い上げる力が少ないですね。
 今日は総代会ですから、総代会の雰囲気にでもちょっと触れたら、なんか得られるかも知れないと思って総代会にはちょっと出たんですけれども、どうもそういうものも感じられない。
 もう、舞のけいこをやっておりますから、もう舞のけいこの所にも入って行って、ひと舞終わるまで座って見せて頂いておりますけれども、なんとも響いてくるものがない。  まあ、今日はそういうような心の状態で、まあ御祈念も時間が過ぎるのですから、まあ奉仕させて頂く事頂きましたもののです、生神金光大神 天地金乃神一心に願えおかげは和賀心にありと仰るその和賀心というものがつかめないでおる状態でございますけれども、皆さんもそげんな時があると思うのです、ね。
 自分の心が持っていき場ないというか、まあ風邪ひいた時は別、その、生き生きした神様のありかたなんてどうでもよいと言いやもうおしまいですよね。けどもどういう中にあってもですね、そういう心を頂こう、頂こうとする心が問題なんです、頂けなくても、ね。
 自分の心に喜びもなかなければ、生き生きしたものもがない、それでいて、ただ無味乾燥なただ御用を頂いておると言うだけじゃない、その御用の中からでも何かを頂こうとする精進が信心なのです。そういうときなら普通の時よりもっと、やっぱりきついんです、ならば、いわば、もう水揚げがしかねるほどの、例えば草花なら草花がなかなか水をあげにくいと同じ事ですからね、ですから、心をいろいろ工夫をさせてさせて頂いておる内にです、神様がまた、例えば、今朝私の心の上に永瀬さんとか、久富正義さんとか、古賀さんあたりの、いうなら生き生きした信心に触れて私の心の中に、その、例えば半日でもここで御用の出来れる心を創らせて下さったようにです。
 ですから、私はこう言うような、なら私がずうっと、参りました総代会にも回った、舞のところにも回った。ここお広前にも、それこそ何べんもいたり、来たりしてみた。けれども生き生きしたものを一つ感じることが出来ない、どころか返ってなにかこうだらっとしたものだけにしか触れないような感じがする。
 本当に皆さん、皆さんの心の中には、皆さんは健全である体は。というてなら心も健全であるかというとそうではない、心が信心に本当にむこうていない、ね、本当に大祭までのひと修行と言ったようなものを、皆さんから感じる事が出来ない。とするなら、これは皆さんも一考を要することじゃなかろうか、ね、それに、例えば風邪どんひいておるならそれはもういよいよつまらん。
 だから、どういうような時でもあります、私どもは。けれどもそういう時に、どんな端からでもです、持って行き場のない心のです、御神前に向かったからというて頂けるものじゃないです、何からでもよいからちょっとこう生き生きとしたものを感じれる私は為の求める心というものがいるんです。
 例えば、私は起きてから御飯を頂いてから、そして、御祈念の間の時間をですね、様々にお広前に行ったり来たりしてみたり、テレビも見てみたり、総代会にもちょっと顔を出して見たり、ね、舞のあれは、そこにもちょっと入ってしばらく座ってじっと見ておってもよい。その例えば舞なら舞があってもで、その、心の中にですね、例えば今日、今朝から感じた朝の御祈念に参っておられる方達のような生き生きしたものがない中で、さあ、もう開教式は、その、教祖大祭ばいと言ったようななるほど稽古はしちゃおる。けれどもその中にです、そういうものが感じららないと言う事はね、これは皆も一考を要するじゃなかろうかとこう私は思うですね。
 皆さんもあるでしょう、・・?心の持って行き場がないような時は、そういうような事をですね、他のものにでも持っていったちゃ駄目です、ね。もう、体もこんなに調子が悪いのだから、もうこれは私が当たり前というたら当たり前だけれでも、もうこれを例えていうならそこん所をですね、お粗末にしたら私の心はいよいよ乱れに乱れるでしょう、けど乱れるとする所を少しこう、そういう精進しておく事によってやや乱さんで済むおかげを頂いておるとだけの事、けれども、なら生き生きしたもの沸いてくるようなものは今の私にはない、それでも私は私は求める、何かの端からでもそれを頂こうとしておるという訳です。
 皆さんどうぞ、まあ、これは私に与え下さった訳ではなくてです、皆さん自身ももですね、そういう時があろうかと思う。そういう時の、いうならば心がけなんです、信心させて頂く者の心がけ、ね。
 もう、例えば体が健全であってもね、和賀心を求めてないなんて、これはもうおおよそ信心のない者と同じ事、まして自分の心から寂しいと言うか、そうした有り難いものがない、そこに火がついて、どうからか求めようとする心がないなら、もうそれもつまらない、ね、どういう中からでも生き生きとしたものを持ち続けようとする努力とか、そういう生き生きとしたものをまた与えられる精進と言うものが私は信心修行だと思うのですね。
                                    どうぞ。